前回、歩くというのは動作ではなく技術であり、
二足歩行は人間という生き物だけが持つ才能である
という話をしました。

そして、その才能ゆえに、私たちは自分で気づかないうちに
からだを壊していってしまうのだという、
少々物騒な煽りで締めました。

今回はその意味と、才能という言葉の定義について
語ってみようと思います。

 

私たちは才能という言葉を、褒め言葉として用います。
あの子は才能があるとか、キミは素晴らしい才能を持っているとか、
そのような感じです。

稀に、あいつが成功したのは才能があったからだ
という、若干のやっかみにも用いられることもありますが、
それでも「相手を評価している」という点においては、
褒め言葉でしょう。

というより、他人を貶すために才能という言葉を用いることは、
まずありません。

 

しかし、失敗や挫折の理由に、才能がかかわることがあるのを、
皆さんご存知でしょうか。

彼は才能があったがゆえに失敗した……
こんなフレーズを耳にしたことはありませんか?

 

才能とは言うなれば
「感覚的に大体の勘どころを掴む能力」
と表現することができます。

スポーツや芸術などで、幼い頃から大人顔負けの成果を出すような人には、
大抵その方面の才能があるということです。

そういった意味で言えば、私たち人間は
身体組成的に動物に近しい存在でありながら、
動物では持ちえない「直立という才能」を持っている
と表せるでしょう。

だからこそ、赤ん坊は誰に教わることもなく自然と立とうと動きだし、
「完全自己流の直立」を成し遂げるのです。

 

そして、そこに大きな落とし穴があるのです。

完全自己流の直立と表したとおり、
同じ直立であっても、人が違えばその立ち方は千差万別です。

同じように立っているふうに見えても、
足の裏のどこにメインとなる重心を据えているか、
直立という姿勢を作る際に、背中にどれほどの力を必要としているか……

他にも挙げていけばキリがないほどに、私たちは同じに見えて
それぞれがまったく異なる直立を行っています。

そしてそれは同時に、
「私はどのように立っているのか」
「私と彼の立ち方の違いはどのようなものか」
などということを考えようと思うこともなく、一生を過ごすということです。

 

今、自分が行っている立ち方は、
自分の肉体の構造と照らし合わせたときに、
無理のないものであるか否か……

そんな検証など行わなくても立つことはできてしまうのです。
直立するという才能があるがゆえに、
その技術が自分にとって最適なものであるかどうかを考えることもなく
使えてしまえるのです。

 

あまり耳触りの良い喩えではないかもしれませんが、
野球のリトルリーグでエースピッチャーとなる子は
肩を故障する確率が高い
……という話を聞いたことはないでしょうか。

なまじ才能があるがゆえに、その才能でゴリ押しするだけで結果が出てしまう。
結果が出せてしまえるがゆえに、コーチの指導を丁寧に受けず、
自己流のピッチングを繰り返してゆくうちに、
それが蓄積して肩を壊してしまう……

このような流れの話が、実は私たちのからだの中にも起きているのです。
その最たるもののひとつが「直立」という才能であり、
その才能を用いて行われる基本動作である、「歩行」なのです。

 

誰かに倣うこともなく。
親に教わるでもなく。
気が付いたときには自然とできるようになっていた、
動物にとっては稀有な才能である「直立」。

それが、私たち大人の慢性的な悩みである、
肩や腰の痛みの原因となっているケースが、実は多いのです。