前回、前々回と、
私が手技を用いて仕事をするのは何のためか
というテーマで、

『ワークを受けるお客さまが、自分でも気付いていない自分の個性や魅力を見つけることである』

と結論付けました。

 

私たちは、一見すると同じ人間という括りでありながら、
その実、誰一人として同一の存在はいない、
唯一無二の個性を持っています。

 

物理的表現としては、指紋や声紋がそれぞれ異なるということになるのでしょうが、
それだけではありません。

私たちのからだは、私たちの性格や人間性までもを表現しようとする
という能力があるのです。

 

穏やかな性格の人は目つきや顔だちがどこか丸く、
理知的な人は鋭角な印象を受ける

……という程度の話なら、皆さんどこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。

 

しかしこういう話をすると、
生まれつき垂れ目がちな人は覇気が無いとか、
切れ長な目つきの人は人情が無いとか、
そういうことなのか。
それは個人の性格を非難しているのではないか。

また、語弊があることは承知でありますが、
顔の造形が、一般に美男美女というカテゴリに当てはまりにくい人は、
性格的に美しくない、歪んでいるということなのか。

と、こういった解釈をされる方も、一部いらっしゃるでしょう。

 

ですがそれは、性格や個性といった言葉の意味を曲解しているだけに過ぎません。

たとえば、穏やかな性格の人であっても、自身の夢や理想のためであれば強い意志を持って突き進みますし、
本当に悪い物事を目にすれば、怒りもするでしょう。

また、理知的な人であっても他者を思いやることはいくらでもあります。
むしろ、子供のような感情的な優しさよりも、褒めるべきところと叱るべきところのバランスを上手に取る、
大人の優しさを心得ているかもしれません。

 

美男美女という価値基準など、それこそ時代や国が変わればいくらでも変化する一過性のものに過ぎません。
某アイドルグループの歌ではありませんが、花はすべて、どれをとっても美しいのです。

しかし、現在ただいまこの国において、
あるいはバラを、あるいは百合を、あるいはサボテンの美しさを美しさの基準としよう
という風潮ができあがり、それを多くの人が持て囃すことによって、
あたかも美しさに優劣ができあがるという、それだけのことなのです。

 

どんな性格の人であっても、私たち人間が持つ『美徳』と呼ばれるものを、
皆等しく持ち合わせているものです。

ただそれが、個性という各々の違いによって、表現の仕方が変わってくるということなのです。

もちろんそこには、肉体的、精神的な成長の度合いによっての未熟さや至らなさもまた、
多分に含まれていることでしょう。

ですがそれは、破綻や欠損などではなく、表現の違いや、あるいは見る者の立場の違い、
もしくは成長の度合いの早い遅いという違いによるものであり、
それもまたすべて、私たち人間が各々異なる個性を持つがゆえに生じるものなのです。

 

しかし、その個性から発される魅力を阻害するものがあります。

それこそが、私たちがクセと呼ぶ、
『からだ本来の個性を歪める習慣』
のことです。

 

私たちのからだは、私たちと同じように個性を持っています。
そして、その個性に沿って用いれば、私たちはいつまででも健康を容易に維持することができるのです。

ですが、からだの個性を無視し、自分にとって都合の良いようにだけ使い続けていると、
やがてからだに、個性とは異なる習慣が染みついてしまうのです。

それがクセと呼ばれるものであり、これが私たちの健康を害し、病気を作りだす原因となってしまいます。

 

私たちにとって楽な姿勢、楽な姿というのは、からだ本来が持つ個性に従ったものでありますが、
このクセに従うことでも、同じように楽を得ることはできるのです。

そしてその楽を
「自分にとっての自然である」
「私の個性である」
と勘違いしてしまうことによって、私たちは『気付かぬまま』病気を作りだしてしまうのです。

 

私の仕事は、お客さまの健康に携わることです。
そういう意味では、からだに染みついたクセを取ることが私の役目でしょうし、
お客さまもきっと、それを期待してくださっているのだと感じます。

それは間違いありません。

 

しかし、それだけでは不十分です。

クセは、長年の継続で染みついたものですから、
一時的にクセを取り除いても習慣が変わらなければ、
またクセはからだに表れてきます。

 

このサイクルを断ち切るためには、
やはりお客さま自身に、自分のからだの個性、
さらには自分のからだの魅力に気づいてもらう必要があります。

そして、その魅力や個性を心地よい、美しいものだと思ってもらうことができれば、
からだはそれまでのクセを破棄して、本来の個性に従った活動ができるようになるのです。

 

それゆえに、私の仕事は
『お客さまが自分では気付いていない、個性や魅力を見つけることである』
と感じるのです。

 

さて、3回にわたって
『私の仕事はなんであるか』
という自問を、皆さまに紹介しました。

しかし、今回出した結論も、これが完全な答えだとは思いません。
恐らくこれから多くの仕事を経験していく中で、今以上の答えに出会うことができるでしょう。

なにしろ、前々回に挙げた石切り職人の寓話には、
実は4人目の男がいるのだそうですから。

 

覚えているでしょうか。

旅人が働いている3人の男に何をしているのかと尋ねたところ、
1人目は「これで生計を立てている」と答え、
2人目は「この国一番の石切りの仕事をしている」と答え、
3人目は「教会を建てている」と答えた
という話です。

 

すると、一番奥に4人目の男がいて、

「私は、皆の心の拠りどころを造っているのだ」

と答えたのです。

 

私の仕事において4人目の男のような答えは、一体何なのでしょうか。
それが見つかったときが来たら、こうしてまたブログか、
あるいは別の形で皆さんにお伝えすることができたら幸いです。