これまで複数回にわたって、私たちとからだとの関係について語ってきました。
今回は、そもそもの原点である『からだ』と、それを信じるとはどういうことかについて、改めておさらいしてみたいと思います。

 

まず、信じるという言葉の確認からです。
信じるという言葉には、大きく分けてふたとおりの意味があると話したと思います。
そうです。『信用』と、『信頼』です。
アドラー心理学では、信用とは担保や根拠を必要とするもの。信頼とは、それらを必要とせず無条件に信じることであると説いています。
私たちの言う「からだを信じる」とは、「からだを信頼してください」ということです。

 

さて、この信用と信頼ですが、調べてみると新しい切り口があったので、ご紹介します。
信用とは、過去を信じること。
信頼とは、未来を信じること。

 

……どうでしょうか。
言われてみると、さもありなんと思いませんか。

人間関係において、信じられる人か否かを考えるとき、大抵の人はまず過去の実績を見ます。
過去、この人はなにをしていたのか。
どのような人生を歩み、どのような経験を積んできたのか。
そのうえで、この人を信じていいものかどうか。

これは、当たり前のことでしょう。
過去なんて関係ない。未来のビジョンがどれだけあるかが重要なのだと言えればどれほど格好良いだろうかと思いますが、残念ながらそうはいきません。
なぜなら、人間関係において信じる信じないという対象は、経験も、価値観も、主義主張も、なにもかもが異なる他人です。
そんな相手を無条件に信じろというのは、さすがに無理がありますし、誰に対してもそうしていては余りにもリスクが高すぎます。

 

しかし、からだにおいてこの前提は、当てはまりません。
からだとは、私たちが産まれてから今日まで、ずっと同じ時間を過ごしてきたパートナーなのです。
わざわざ過去の実績を確認する必要などないでしょうし、今さら何を隠し立てするものでもありません。
恐らく今日に至るまで、からだは私たちの願いに全面的に応えてきてくれたことでしょう。
そうであるならば、もはやそこに『過去の実績を信じるか否か』という前提は必要ないはずなのです。

 

ですが、それでもやはり私たちはからだに対して信頼ではなく、信用を持ち出してしまいがちです。

そうは言うけれど、あのときあれが上手くできなかったではないか。
あのとき自分はああしたかったのに、からだがついていかなかったのだ。

そういった過去の経験から、からだは100%信頼に値するものではないのではないか、という考えを抱いてしまう方が、少なからずいるのではと思います。
今までの人生の中でからだに裏切られた経験があるとしたら、そのときのことをよくよく思い返してみてください。
ほぼ間違いなく、そこにはふたつの間違いのどちらかがあったのではないでしょうか。

ひとつめの間違いは、からだへの無理解と一方的な要求です。
一度成功したときの感覚のまま、コンディションもなにもかも違う状態のからだに、同じ結果を要求したりはしなかったでしょうか。
子供の運動会でいいところを見せようと、毎日のように泥だらけになるまで走り込んでいた10代の頃の意識で、保護者リレーに参加したりはしませんでしたか?
2、3日徹夜しても気持ちを切り替えればどうとでもなった青年の頃の勢いのまま、50歳を超えた今を乗り切ろうとしていませんか?
傍から見ればオーバーワークであることが一目瞭然なのに、自分のこととなると途端に分からなくなってしまうから、不思議なものです。
それで失敗したからといって「からだなんて信用できないものだ」と見限るのは、少々一方的であると言わざるを得ません。

 

そして、もうひとつの間違いは「からだに対する疑い」です。

私たちニューフィールドは、からだとは『応えるもの』『応じるもの』であると考えています。
私たちが信頼すれば、からだは信頼でもって応え、
私たちが疑念を抱けば、からだはその疑念に対して真っ当に応えます。

これがからだの面白く、素晴らしいところです。
からだは私たちの問いに対して、決して「No」とは言いません。
からだとは、私たちの問いかけを全面的に肯定しようとするものなのです。

私たちがからだに対して「きみは優秀だな」と思えば、からだは「もちろん、私は優秀です」と応えます。
逆に、私たちがからだに対して「この程度のこともできないのか?」と思えば、からだは「はい、私はその程度のこともできません」と応えるのです。

 

実はこれこそが、些細なことで病気になったり、あるいは奇跡とも呼べるような回復を遂げたりする要因のひとつなのです。
次回は、応えるものとしてのからだという点から、私たちのからだについて掘り下げていきましょう。