前回、前々回と、私たちと肉体との関係性を、騎手と馬に喩えてお話ししました。

肉体と向き合うということは、騎手が馬の性質を理解し、その馬に合った走らせ方をすることが重要であるとも述べました。
しかし、人によってはこれをとても残酷なことのように感じる方もいるでしょう。

極端な例ですが、たとえば子供の頃にオリンピック選手に憧れ、自分もその舞台に立つことを夢見てトレーニングに励んでいる青年がいたとしましょう。
しかし、周りの者と同じようにトレーニングをしていても、思うように成果が出ない。
そして、いざ自分の乗る馬……肉体と向き合ってみると、それが競走馬ではなく、農耕馬に向いた馬であるという事実を知ったとき。

取るべき道は、大きく分けて3つです。
オリンピック選手になるという夢を断念するか。
他の希望者の2倍も3倍も努力をするか。
それとも、今まで培ってきたトレーニングを別の形で活かす方法を模索するか。

どれであっても、苦難の道のりであることでしょう。
そのような苦しみを味わうくらいなら、何も知らぬまま努力を続けたほうが幸せではないかと感じる方もいるかと思います。

 

ですが、それでも私は、仮にそれが一時の苦しみを生み出すことになっても、自分の乗る馬の性質を知ることは、私たちにとって大きな幸せを作りだすことであると信じています。
なぜなら、肉体というのは私たちが考えている以上に正直で、私たち本人よりも、本人のことを雄弁に語るものだからです。

肉体とは心の在り様を映し出す鏡……というと、少々大袈裟かもしれませんが、そういった側面を、肉体は持っているのです。
私たちが、何を望み、何を求めているのかを、肉体はストレートに表現します。
いえ、むしろ私たちが意識的に思ってもいない、無意識の願いをこそはっきりと受け取り、それをダイレクトに表現しようとするものなのです。

先ほどのたとえ話で言うなれば、オリンピックを目指すその青年は、本当は自分自身が憧れの舞台に立つことを無意識下では望んでいない、という可能性もあるのです。
選手としてではなく、オリンピックに出場する選手を育てるコーチになることを求めているのかもしれません。
もしくは、オリンピック選手たちに密着取材する記者のような立場を願っている可能性もあります。
そして、選手たちの気持ちをより深く、正確に汲み取るため、敢えて一時、自分も選手の側に立つ時間を必要とした……こういうことは、十分に考えられます。
コーチも記者も、非常に馬力の要る仕事です。選手が休んでいるときも常に動き続けているくらいでなければ務まらないことでしょう。
どちらも、可能性のひとつです。
そもそも、これは何処の誰でもない、たとえ話に過ぎません。
しかし、こういった話を自分のこと、もしくは自分の周りに投影してみると、思い当たる事例があるのではないでしょうか。

 

肉体を知る、肉体と向き合うということは、自分自身の中にある選択肢を知る、ということでもあるのです。
そうすることによって、数ある選択肢の中から、自分の判断で未来を選ぶことができるということなのです。
もっと積極的表現をするなら、自分の自由に未来を選び取ることができるようになるのです。

もし、自分の肉体と向き合うことなく、結果を出すために常人の2倍、3倍の努力を続ける道を選べば……いいえ、選ぶという意識も無く、それしか無いと思い込んでしまえば、恐らくですが少なくない確率で選手生命を断つほどの大怪我をすることでしょう。
そして、自分の才能の無さ、肉体そのものの無力さに嘆く時間を過ごさなければならないはずです。

しかし、事前に自分の肉体と向き合い、その上で選手としての道を選ぶ決断をしたとすれば、何も知らないより遥かに高い確率で自分の肉体が壊れないギリギリのラインを見切る努力ができるはずです。
その結果、もしかしたら夢の高みに手が届くかもしれません。
仮に、同じような大怪我をしたとしても、すべてはリスクも承知で自分の選んだ決断の結果なのだ、と受け入れることができることでしょう。

どちらが幸せでしょうか。
他人事ではなく、自分がもしその青年と同じ立場だったらと想像してみてください。
恐らく、決して少なくない人が、そんなことが分かっているなら早くに教えて欲しかった、と思うことでしょう。

 

さて、ここまで少々ネガティブに感じることを書いてきましたが、安心してください。
肉体と向き合うということは、皆さんが考えている以上に幸せを作りだすことに繋がるのだということを、これから説明していきます。

これは理屈などではなく、そのように捉えるのが自然であろうという、経験則でしかありません。
しかし、どういうわけか肉体というものは、私たちが潜在的に強く願っていることを表現するものなのです。
逆に言うと、私たち騎手は、私たちの根本の願いそのものに応えてくれる肉体という馬を選んで生まれているのではないか、ということです。

私たちの願いを、肉体が表現するのではありません。
私たちの願いを叶えるに適した肉体を、最初から選んでいるのだということです。

自分から先頭に立って、他人から注目される活躍をしたいという願いを持つ人が、少し動けばすぐ息切れするような細っこい肉体を選ぶはずがありません。
逆に、研究室に籠ってひとつの分野を徹底的に掘り下げていきたいと願う人が、大量のエネルギーを必要とする筋骨隆々な肉体など、決して求めはしないでしょう。

太りやすい肉体を持っている人ならば、それは長いスパンで活動を続けるような生き方を求めているのではないかと想像できます。
いくら食べても痩せたままという人であれば、肉体労働よりも知能労働が向いているのではないかと予想できるでしょう。

そして、実際その人が活躍している、あるいは活躍を望むステージは、肉体の特性にピタリと合ったものが多いのです。
これを偶然と捉えるよりも、なにかしらの意図を持ってデザインされていると考える方が自然であると思うのですが、いかがでしょうか。

 

私たちピタゴラスの手は、肉体と向き合うことで、その『なにかしらの意図』をより正確に掴むことができると信じています。

私たちの手で肉体をどうこうするのではなく、肉体が「こう在りたい」と願う方向に進む補助をする。
それが結果的に、肉体にとっても、その肉体という馬に乗る騎手本人にとっても幸せになる。
なぜなら肉体とは、私たち自身が求める理想を、文字どおり体現する存在だからである。

このような理念に基づき、私たちは日々研鑽を重ねています。
もしもこれが、多くの人たちの未来を選ぶ、将来を見つめることの手助けになれば、これほど嬉しいことはありません。

 

未来に迷ったときは原点に返るのが良い、という話を聞いたことがあります。
子供の頃に描いた無知ゆえの理想は、無知であるからこそ純粋に、その人の根本の願いを表現しているのだということです。
そういう意味では、肉体というのもまた、私たちの理想を知るための原点のひとつとなるのかもしれません。
なにせ、生まれたときから今日に至るまでずっと、私たち自身と共に成長を続けている存在なのですから。