前回は、私たちと肉体の関係は、騎手と馬のようなものであるという話をしました。
それに続いて、今回はこの馬である肉体の見きわめ、というテーマで語ってみたいと思います。
以前から何度も書いていますが、私たちの肉体は、そのひとつひとつが唯一無二の存在です。
確かに、パッと見ただけならどれも似たような姿形をしています。
頭がひとつ、胴体がひとつ、手足がふたつずつで心臓はひとつ。その左右に肺がふたつ……規格そのものは、どの肉体をとっても概ね似たようなものでしょう。
ですが、その中にひとつとして同じ肉体はありません。すべてが同一規格で創られ、しかしすべてがまったくの別物なのです。
この話をするときも、馬の例えが分かりやすいのではないかと思います。
遠目から見れば、馬はどれも似たような姿をしているはずです。
しかし、私たちは馬と一口に言っても、実にたくさんの種類の馬がいることを知っています。
あるいは、犬でも猫でも構いません。
四足で歩いてワンと鳴けば犬、ニャーと鳴けば猫。
そんな括りだけで、この世に大量に存在する犬種、猫種を、すべて『犬はどれも犬』『猫はどれも猫』と大雑把に分けることをするでしょうか。
具体的に言えば、同じ犬だからといって、大型犬と小型犬を同じように世話するでしょうか。
北国生まれのハスキーも、屋内愛玩犬のチワワも、どちらも犬なのだから同じ部屋に住まわせ、同じ食べ物を同じだけあげて、同じ量の運動をさせる……ナンセンスだと思いませんか?
実は、肉体というのも同じなのです。
それぞれが微妙に、しかし確実に違う肉体なのです。
もっと突っ込んだ表現をするなら、肉体としての役割そのものが違うのです。
犬や猫ほどにバリエーションに富んだ差異があるかどうかは分かりませんが、少なくとも農耕馬と競走馬は、同じ馬であっても体つきから役割から、別物であることが分かるでしょう。
ましてや、戦争で活躍する軍馬ともなれば、食べるものから日々の訓練から、なにもかもが違うものであるに違いありません。
私たちの肉体も、それくらいの差異はあるのです。
意識や性格の違いなどという段階以前に、肉体としての個性があるのです。
たとえば、骨の僅かに太い細いなどはどうでしょう。
骨の太い人はそこに付く肉の量が多いため、細い人と同じ運動をしても筋肉が付きやすいですし、同時に脂肪分も蓄えやすくなります。
血圧の高低もそうです。血液を送り出す心臓としての役割はどれも同じであっても、そこに強弱があるのはなぜでしょう。
酸素の二酸化炭素の交換という結果さえ得られれば、肺はその役割を果たしているはずです。なのに、どうして肺活量の大小などがあるのでしょうか。
すべては、肉体の個性なのです。
私たち一人一人に異なる性格があるように、肉体にも同じように一体一体異なる性質があります。
その個性を無視して、同じ肉体なのだからすべての人が同じことをすれば同じようにできるはずだと考えるのは、余りにも強引ではありませんか。
分かりやすい例えを出せば、運動ひとつ取っても、向いている肉体と、向いていない肉体があるということです。
運動に向いていない肉体を捕まえて、
「お前はあいつと同じように練習しているのに同じ結果がでないなんて、ダメな奴だ!」
と。
馬鹿げた話ですが、その事実を知らない……いいえ、こういった認識さえ無い人は、さも当然のことのようにこのようなことを言います。
運動に向いていない肉体というのは、言い換えれば大量のエネルギーを消費する活動をしなくても良い肉体のことです。
つまり、細く長く、同じことをコツコツと続けることに向いている肉体なのです。
こう表現すれば、実に勤勉で、日本人らしい肉体だと感じませんか?
同じ肉体のことを指していても、表現ひとつで印象なんて簡単に変わってしまいます。
そして、その簡単に変わってしまう印象ごときで、私たちは「これは良い」「あれはダメだ」などと、短絡的な決断を下してしまうことが往々にしてあるのです。
まずは、私たちの乗っている馬であるところの、肉体そのものと向き合ってください。
そこに、私たち個人の要望は一切必要ありません。
そのうえで、考えてください。
その肉体は、何をするのに向いていると感じますか?
どのような魅力を持っていますか?
そして、それを踏まえたうえで、あなたは何をしたいと考えますか?
肉体と向き合うということは、そういうことなのです。