からだ=自分? 自分≠からだ?

私たちワーニッツでは「からだとはもっとも近しい他人である」と捉えています。
普通、私たちはからだそのものが自分自身であると考えがちですが、実はそうではありません。
からだとは、非常に有能で、従順な、けれど決して私たちと同一ではない隣人なのです。
というより、そういったものであると捉えたほうが納得できることが、からだには多々起きるのです。

先日、久しぶりにまとまった休みが取れたのですが、あろうことかその期間はずっと風邪をひいて寝込んでしまいました。
せっかくの連休なのだからどこか旅行でも行こうか……なんて考えていた矢先に、熱に腹痛に鼻水ダラダラというのは、なんとも運の無い話です。
恐らく、休みを前にして張っていた緊張が途切れてしまい、今まで溜まっていた疲れがドッと出てしまったのでしょうが、もし体が自分自身であり、自分の思いどおりになるのであれば、こうはならなかったでしょう。
一応なりとも休みは楽しみにしていましたし、旅行のプランも立てていました。つまり度合いは違えど、別ベクトルの「楽しみという緊張」は確かにあったのです。
にもかかわらず、風邪をひいて寝込んでしまった……それも、わざわざ休みの日を狙いすましたように。
これは、緊張感が足りなかったのでしょうか。
それとも、本当に運が無かっただけでしょうか。
どちらでも解釈はできますし、どちらの解釈も決して間違っているわけではありません。
なら、からだそのものが自らの判断でそのタイミングで回復要請を出した……と、解釈することも間違いではないはずです。
そして、ワーニッツではこの3つめの解釈を重視しているのです。

緊張で抑え込んでいた毎日の疲れが、気の緩みと同時に溢れ出たとするなら、もっと早い段階で表面化するはずです。
なぜなら私たちは、毎晩『睡眠』という心身の緊張を解く時間を必ずと言っていいほど取るからです。
にもかかわらず、仕事の詰まった期間の睡眠中にはこの溜まった疲労は発露せず、休みの日の朝、目が覚めたときにドッと溢れ出たのはなぜでしょうか。
「今日は休日だから、今のうちに体力を回復させるための時間を作って下さい」
と、からだから提案され、無意識の自分がそれを受け入れたのだとすれば、納得できないでしょうか。

冒頭で、からだとは非常に有能で、従順な……と書きました。
そう、からだとは私たち本人の意志に対して、驚くほどに従順なのです。
私たちが普段の日常生活でどれだけ無理をしても、それが私たちにとって成すべきこと、たとえば大切な仕事などであれば、からだは一切文句も言わずにそれに従います。
そして、私たちが成すべきことを成しとげ、ふっと気持ちを緩めたときに、今までの収支報告書でも持ってくるかのように回復要請を出すのです。
もちろん、それを突っぱねることもできます。
「お前は私で、私はこの休みに旅行に行くと決めていたのだ。ならばお前は風邪をひいている暇など無いではないか!」
……実にエネルギッシュなことだと思いますが、もしこれが自分の上司の対応であったのなら、辞表のひとつも出したくはなりませんか?

からだを大事に。からだをいたわって。
よく耳にするフレーズですが、自分を大事に、自分をいたわるというのは、実はなかなかに難しいものです。
けれど、友達を大事に、隣の人をいたわって……。
こういうとすんなりできそうな気がしませんか?
からだとは自分そのものではないと解釈すること。それが一番、からだを大切にすることに繋がるのかもしれません。

Masaki