『人は幸せになるために生まれてきたのだ』
どう受け取るかはそれぞれ自由だと思いますが、私個人としては単純に良い言葉だと思います。
不幸になるために生まれてくるなんて考えたくもありませんし、仏教における生老病死のように生まれてくることそのものが苦しみであるという思想も、理解はできますが心から納得することはできません。
やはり、生きる以上は幸せになりたいですし、それが人生の目的であるとするのは良いことだと思います。
ですが同時に、ふと思うことがあります。

幸せになるために生まれてきたということは、生まれる前は不幸だったのだろうか。
幸せというけれど、そもそも目指すべき幸せとはなんなのだろうか。

愚にもつかない悩みなのだろうなとは自分でも思いますし、ただの言葉遊びに過ぎないと感じることもあります。
生まれる前という、恐らく人間が一生かけて研究を続けても認識できないであろう領域のことを思い悩んでいるなんて、それ自体が不幸だと笑われてしまうかもしれません。
幸せとはなにかなんて、それこそ分かるはずもありません。100人いれば100通りの答えが返ってきてもおかしくない問いです、万人が納得する答えなど見つからないでしょう。
考えるだけ時間の無駄。そう割り切ってしまっても、おおよそ問題ないように思います。
けれど時折、それこそが幸せになれない、幸せを感じられない原因ではないかと感じてしまうときがあるのです。

現代日本人の多くは、今の自分が幸せだと思いますかと訊かれると、半数以上の人が「いいえ」と答えるそうです。
確かに、この社会には本当に多くの苦しみがあります。仕事のことはもちろん、人間関係、そして健康。不幸の種は尽きません。
しかし、おおよそその不幸の原因をよくよく考えてみると
「〜〜したいのに、できない」
ということを不幸であると認識していないでしょうか。
もし、これを不幸であると定義づけてしまうと、この世界は不幸で満ち溢れてしまいます。考えてもみてください。世の中、自分のできないことのほうが多いはずです。もしそれが正しいとするならば、新しいことに興味を持つということは不幸のはじまりになってしまいます。
子供の頃、私たちは誰だって「できない」からのスタートだったはずです。しかし、恐らくそれを不幸であると嘆いたことはなかったのではないでしょうか。
やればできる。諦めなければいつかできるようになる。何の根拠もなくそう信じていたのではありませんか。
もちろん、そのなかで本当にできないことにぶつかって、挫折だとか、才能の違いだとかを覚えていくのでしょうが、大切なことは「『できない』は不幸ではない」ということです。逆に「できるようになるという幸福」だと捉えることも可能のはずです。
むしろ子供の頃は、それを『新しいことに挑戦する喜び』と感じていた人もいるのではないでしょうか。

あれがしたい、けどできない。あれが欲しい、けど手に入らない。それをもって「幸せではない」と考える人が、どうにも多すぎるような気がします。
確かに、ずっとできないままであるなら幸せとは言えないでしょう。けれど、できないと感じるということは、できるようになりたいと願ったということです。
当たり前のことのように聞こえるでしょうが、これはとても大切なことです。なぜなら、そもそも願わなければ、それに至らぬ自分を幸せではないと感じることさえ無かったはずだからです。
野球にまったく興味の無い人間がボールを速く投げられなくても、それは不幸ではありません。歌にまったく興味の無い人間が音痴でも、それは不幸ではないはずです。
願った、望んだということは、興味があるということであり、できないことをできるようになりたいと求めることは、幸福か不幸かで言えば幸福であるはずでしょう。

もちろん「いいや、それこそを不幸というのだ」と言う人がいても、それはそれでいいと思います。それはある意味で『不幸とはこういうことである』という認識をはっきり持っているということですから、逆に幸福とはなんであるかも認識できているはずです。
大切なことは、私たち……いいえ『私』にとってなにが幸せか、を認識するということです。それができれば、そこに至るために何をすればいいかが分かるようになるはずです。それが分かれば、その幸せが今の自分に達成可能なものなのか、それとも高望みであるかを判断することができるようになります。
そして、もしその幸せの条件をクリアして、幸せになったとしたのなら、さらに次のレベルの幸せを求めても良いのです。
試験の点数には上限があり、受験の合格者数には定員がありますが、幸せには上限も定員もありません。
もし、この文章を読んで、
「ならひとつ、自分にとっての幸せでも考えてみるかな?」
と感じてくれる人が1人でもいれば、それは私にとって何にも勝る幸福です。
私にとっての幸せとは『自分が楽しい、興味があると感じることをやって、それが他の誰かの幸せの助けとなる』ことですから。
そして、もしその幸せの条件の中に『からだの健康』という項目があって、ピタゴラスの手がその幸せを達成する選択肢のひとつに入れたとするならば、これほど嬉しいことはありません。

Masaki