前回、
「きみのために」「あなたのために」
という言葉は、それを使われた相手に
『相手の好意を受け取らなければならない』
『相手の好意を受け取らないのは悪いことだ』
という脅迫感を与えることに繋がる、という話をしました。
この言葉そのものは、決して悪いものではありません。
それどころか、「あなたのために」の精神をお互いに持ちあうことで、
物事が円滑に進むというケースはごまんとあります。
ですが、それは本当にお互いのためを思いやっていればこそ、です。
「きみのため」「あなたのため」
そう言いながら、本心で相手を自分の思うとおりに動かしたい
自分が期待するように行動してほしい
そんな願いがあれば、それはもはや思いやりでもなんでもありません。
ただお互いに自分の願望を押し付け合っているだけです。
「人」の「夢」は「儚い」と書きますが、
「人」の「為」は「偽り」、となるでしょう。
これは、
「人は油断するといつも自分の願望を他人のためと偽ってしまう」
「だからそういう思いが自分の中に無いかどうか、念入りに確認しなさい」
という、先人の教訓なのかもしれません。
誤解しないで頂きたいのは、その願いを持つこと自体、悪いことではないのです。
「私はあなたにこうして欲しい」
「あなたにこうあって欲しい」
そう願うのは、とても良いことです。
そうでなければ、この世に教師やコーチ、指導者という立場の人間は
存在できなくなります。
相手の良いところを見つけ、それを引きだせるよう願うことは、
私が行うボディワークの原点でもあります。
ですが、それを選ぶ権利は、あくまで提案された相手にあるのです。
早い話が、その願いを断っても良いのです。
なぜなら「あなたのため」というフレーズを使う以上、
「あなたの都合」を最優先にするのは当然のことだからです。
そうでなければ、あなたのためなんて言っていいはずがありません。
しかし悲しいかな、このフレーズをつい使ってしまうとき、
相手の都合を最優先にしようなんて思いは、まずありません。
それどころか、
「私の提案が一番良いに決まっている、だから私の提案を飲みなさい」
という思いが、心の底にのたくっていることでしょう。
「あなたのために」
このフレーズの良くないところは、
それを使っている本人は、非常に気分が良くなるという点にあります。
「私は相手のために何かをしようとしている善人だ」
というイメージが、この言葉にはあります。
自分が善人であるイメージに酔ってしまい、
相手に自分の願望を押し付けている可能性があるということを、
完全に忘れさせてしまうのです。
実は自分の願いを最優先にしていることを、
「きみのために」という一言が添えられるだけで
自覚できなくなってしまうのです。
使われた相手には脅迫感と、断った際の罪悪感を。
使った本人は自己陶酔と、要求が通ったときの優越感を。
人間関係を円滑にする潤滑油としての役割を持ちつつ、
扱い方を間違えると簡単に不幸をばら撒くことになる。
そういう意味では、
「あなたのために」
というフレーズは、お酒とよく似ているのかもしれません。
禁酒の必要などありません。
人のために何かしたいと願うことは、とても大切なことです。
ですが一度、そのお酒は一体どんなものなのか、
そのお酒に自分は溺れやしないだろうか、
勧められた相手を苦しめることはないだろうか……
それらを再確認してみるのも、同じくらい重要ではないでしょうか。
その方法はいたってシンプルで、
「先ず自分の要望を第一に出す」
それだけです。
「私は○○したいんだけど、あなたはどう?」
「私はキミに〇〇したいと思う。どうだろうか」
ただの言い換えかもしれません。
結局、強制感は拭いきれないかもしれません。
けれど少なくとも、
「自分は善人であり、その善人の自分は提案することはすべて正しい」
という悪酔いをすることは無くなるでしょう。
……と、思うのですが、皆さんはどうでしょう?