「情けはアナタノタメならず?」

『情けは人のためならず』

 

以前のブログでも、誤用の多い言葉として
紹介したことがあると思います。

本来の意味は、

「他人に情けをかけるのは、巡り巡って自分に返ってくる」
「よって、情けとは他人のためだけにかけるのではない」

という意味です。
仏教思想における、因果応報、善因善果の教えですね。

 

しかし昨今は、これとまったく逆の意味である

「情けをかけるのは、人のためにならない」
「小さな親切、大きなお世話。だから軽々しく手助けすべきではない」

と解釈されてしまっていることが多いそうです。

 

時代と共に言葉が変化することはよくあることなのかもしれませんが、
やはりそういったことわざが生まれるには、
生まれるだけの理由なり根拠なりがあると思うのです。

 

それを顧みることなく、言葉は生き物だから、の一言で
変化してゆくのを許容するのは、
やはり安易と言わざるを得ないでしょう。

ですが時折、「それも一理あるな」と感じる場面があります。
つまり「情けをかけるのは人のためにならない」と思う瞬間です。

 

私は、
「あなたのためを思って」
「きみのためになると思って」
こういうフレーズを聞くたびに、モヤッとした感情が浮かびます。

あなたのためを思って。
このフレーズの後に続くのは大抵、

「〇〇すべきである」
「〇〇したほうがいい」

という、推奨の言葉です。

 

あるいは、プレゼントを送るときにも見かけます。
「キミのためを思って買ってきた」
「あなたのためになると思って用意した」

この言葉の後には、
「だからあなたはこれを受け取るべきである」
という推奨が、無言の内に含まれていることでしょう。

 

ですがこの推奨は、本当に推奨でしょうか。
そこに、

「私はあなたに〇〇して欲しいと思っている」

という、要望の意図が含まれていないでしょうか。

 

もし、要望の意思があるのであれば、素直にそれを伝えるべきでしょう。

「私はあなたに〇〇して欲しいと思うのだけれど、どう?」

これが、自身の感情を丁寧かつ率直に表現したものであると思うのです。

 

なぜこのように言う必要があるのでしょうか?
同じことを言っているだけだろうと感じるでしょうか?

確かに意図は同じですが、決定的に違う点がひとつあります。

それは、
『提案された側に、その提案を断る自由意思があるか否か』
ということです。

 

私は仕事柄、クライアントの方に
より良いからだを味わって頂きたいと考えています。

そして、ワークを受けにいらした方々に施術を行えば、
受ける前よりも心地よい状態にできる技術と、自信があります。

 

しかし、たとえそう思っていたとしても、
「この施術を受けるのは『あなたのために』なります」
「『あなたの健康のためを思って』このワークをオススメします」
という言い回しは使うまいと、心に決めています。

 

なぜなら、このフレーズを使われた相手にとって、
『相手の好意は受け取らなければならない』
という脅迫感を強いることになるからです。

 

もっと言うなれば、仮にその提案が
自分にとって好ましいものでなかった場合、
それを断るということは、

『相手の好意を無碍にした』

という罪悪感を与えることに繋がってしまうのです。