前回、前々回と、ガマンは体に毒であるという話をしました。

我慢という文字が示すとおり、
本来の意味のガマンとは、

『我こそが正しいのだと慢心し、頑として譲らないこと』

であります。

それが転じて、周囲からの誹謗中傷に耐える姿が、
苦しみに耐えることへと意味が変わっていった、と言われています。

これを私たちのからだに当てはめて考えると、
いかに毒であるかがよく分かります。

つまり、今の自分の状態こそが正しいのだと思い込み、
そこから動くことをしなくなってしまった状態こそが、
からだにとってのガマンであるのです。

 

本ブログで何度も書いているとおり、
からだは外部からの刺激に対して自由に変化できる状態こそが、
平常であり、健康なのです。

それを、今の状態が正しいのだと信じきって、
外からどんな刺激を受けても頑なに動かない状態というのは、
不健康以外にどう呼べばいいのでしょうか。

 

しかしだとすると、からだにとっては
『苦しみに耐える』
ということは、悪いことなのでしょうか。

もちろん、そんなことはありません。

前回、本来の日本語の意味で『苦しみに耐える』という言葉に、

忍耐、辛抱、堪忍、忍辱

というものがあると紹介しました。

どれも日本の美徳を示す良い言葉だと思いますが、
私はこの中の

『辛抱』

が、からだにとっての良い意味で
『苦しみに耐える』
ことを示しているのではないかと思うのです。

 

ボディワークを学んでいてつくづく思うのですが、
ガマンを覚えてしまった状態のからだが自由に動こうとするとき、
そこにはどうしても痛みを伴います。

雨ざらしの中に放置されて、すっかり錆びきってしまった
自転車のチェーンをいきなり動かそうとすると、
ギシギシと酷い音が鳴るのと似ているでしょうか。

そこに油を差して、ゆっくりとペダルを回してやるのが、
からだにとってのボディワークであるとするなら、
まさにこの瞬間こそが『辛抱』であると感じるのです。

辛抱という字を見ると、
『辛い』を『抱く』……

つまり、痛みを受け入れる、という意味に読み取れます。

痛みや苦しみを受け入れ、それを血肉とすることで人は成長する……
という美談としての意味ももちろんありますが、

なによりもまずは
『痛みを認識できる』
ということが、私たちにとって何より大切なのではないでしょうか。

 

痛みは、からだが変化しようとするときのサインでもあります。
それが良い変化であれば受け入れ、
悪い変化であれば酷くなる前に矯正する。

それを判断するためにも、痛みはとても大切なものです。

しかしガマンすることを覚えてしまったからだは、
痛みを排除するために、それを感じないようになっていってしまいます。

これでは、変化に伴う良い痛みに気付けないどころか、
悪い変化にも気付けず、それを蓄積させていくことになるでしょう。

それどころか、痛みを感じにくくなってしまっては、
私たちが行うようなボディワークを通じての痛み、
施術を終えた後に表れる変化に伴う良い痛みさえも、

「こんなものは嫌だ!」

と頑なにガマンしてしまい、
せっかくの回復のチャンスを棒に振ってしまうことになりかねません。

 

そうではなく、痛みを痛みとして気付くことができて、
良いものは残し、悪いものは捨てる。

そのためにも、まずはそこにある『痛み』を認識し、
それを『受け入れる』。

これが私たちのからだにとって『苦しみに耐える』こと。
すなわち、

『辛抱』

なのであり、
だからこそ私たちは小さいときから、ガマンは大切……

いいえ。

「苦しみに耐えることは大切だ」
と、教わってきたのではないでしょうか。

 

どうとでも取れる言葉の綾……そう割り切ってしまえるのならば、
それはそれでいいのかもしれません。

ですが、どうとでも取れるのならば、
本来の正しい意味で覚えておいても、決して損にはならないはずです。

 

『情けは人のためならず』を、
「人のためにも自分のためにもなるから、情けはかけるべきだ」と理解するか。
「人のためにならないから、情けをかけるべきではない」と理解するか。

どちらで解釈しても、確かにそこには一定の『理』があります。

では、私たちに『利』があるのは、どちらでしょうか?

 

ガマンはからだに毒(ドク)ですか?

それとも、ガマンはからだに得(トク)ですか?

ぜひ一度、皆さん自身のからだに尋ねてみてください。

そして、どちらにも確かな『理』があったのなら、
どうせなら自分にとって『利』のあるほうを選んでみてください。

それがきっと、私たちの健康を作りだしていくはずです。