そもそも、なぜガマンは大切だ、などと私たちは教えられるのでしょう。

実は、私たち体のみならず、心までもを腐らせる毒こそ、
このガマンなのです。

 

こう言われると、
「そんなバカなこと、あるはずがない」
と思う人もいるでしょう。

小さい頃から、ガマンすることは大切だと信じて、
やりたいことや、欲しいものがあっても
グッと飲み込んでガマンしてきたのに、

それが心と体を腐らせる毒だなんて言われたら、
カチンと来る気持ちは、よく分かります。

しかし、このブログを読んでいるということは
インターネットに繋がっているということですから、
『がまん 意味』
と検索してみてください。

恐らくこう出てくるはずです。

 

『我慢』

・仏教の煩悩のひとつ。強い自己意識から起こす慢心のこと
・自分を偉いと立てるわがままな慢心

 

もちろん、同時に私たちが大切だと教わった
『辛いことを耐え忍ぶ』
という意味も出てきます。

しかし、それにしてもこの意味はあまりにも両極端すぎます。

片や苦しみに耐えることだと言われていたと思ったら、
片やわがままな慢心だなんて、
まったくのあべこべではありませんか。

 

こうなった理由は諸説あります。
有力なものは、近世後期……江戸中期以降あたりでしょうか。

自分の意見を曲げず頑とした態度を取ることが、
転じて周りからの非難に耐えるような姿と見られ、

そこからガマンは、
『苦しみに耐えること』
という意味になったのだ……というものです。

 

なるほど確かに、江戸中期といえば町人文化が花開いた時代です。

しかも「宵越しの金は持たない」ことが
格好良い男の条件だと思われていたような、
現代の基準からはちょっと外れたところもある文化性ですから、
そんな社会を鑑みるならば、

他のみんなが「ナァナァの馴れ合い精神」で折り合いをつける中、
ひとりだけ我を張って頑として譲らない態度を貫けば、
格好良く見えたかもしれません。

しかも、それが他人の非難の視線にさらされながら、
「てやんでえ!」の心意気で突っ張りとおすというのは、
ちょっとした傾奇者(かぶきもの)っぽく見えて、
苦しいことに耐え忍ぶ姿に映った……という可能性は大いにあります。

 

しかし、時代が変われば価値観も変わります。

今のご時世、宵越しの金は持たないと言って、日々の稼ぎを全部、
飲む打つ買うの三遊……お酒とギャンブル、女遊びに突っ込んでいたら、
間違いなく白い目で見られることでしょう。

であるならば、ガマンが大切だという価値基準も、

もはや過去の遺物である、
私たちは一過性の価値観に囚われていたのかもしれない、

と割り切ってしまうことも必要なのではないでしょうか。

 

そして、なによりご安心ください。
多くの人が大切だと信じてきたガマンの意味である

『苦しみに耐えること』

を表す日本語は、我慢の他にもたくさんあります。

忍耐(にんたい)
辛抱(しんぼう)
堪忍(かんにん)
忍辱(にんにく)

……
いかがでしょうか。
パッと思いつくだけでもこれだけ出てきます。

しかも字面を見る限り、我慢よりよほど
『耐え忍ぶ』意味合いが強く感じられるでしょう。

忍耐
辛抱
我慢
堪忍
忍辱

並べてみるとガマンだけが、やたらと浮いて見えます。
なにせ、『我』の『慢』ですから。

そして実はこれらこそが、私たちが小さい頃から大切だと教えられ、
日本人が古来より『美徳』としてきた、艱難を乗り越える精神です。

 

言葉は生き物であり、時代と共に変化する……と言われることもありますが、
個人的にはあまり好きではありません。

確かにそういった側面もありますし、
それがきっかけで発展した文化もあるのでしょう。

しかしその変化は、すべて歓迎すべきものでしょうか。
中には、一過性の流行りに乗って粗製乱造されただけの、
量産品も含まれているかもしれません。

 

そして私は、このガマンもまた、そのひとつではないかと思うのです。

日本人が長らく大切にしてきた『忍耐』という伝統工芸を駆逐し、
現代社会にのたくる粗悪な大量生産品。

それが、我慢の正体なのではないかと思うのです。