『ストレス社会という世界の中で』

 

前回、ストレス社会の中で自分にとって最適なストレスレベルを見つけることができれば、体を悪くするどころか逆に健康になってゆく、という話をしました。

今回は『ではそもそもストレス社会というものは、如何なるものなのか』ということを、論じてみようと思います。

 

ストレスとは圧力の言い換えに過ぎないことは、前回話したと思います。
なので、まずはこのストレス社会を『圧力社会』と言い換えてみましょう。

この圧力社会を作り出している圧力は、大別すると3つです。
人、空間、そして価値観です。

 

人はいわずもがな、都市部に集中した人口密度そのものです。
私たち人間は、それぞれ自分のパーソナルスペースと呼ばれる感覚的テリトリーを持っていると言われています。
その広さは人によって誤差はありますが、おおむね半径60cm……自分が自由に両手を広げることができるだけの広さがあれば、人は圧力を感じにくいらしいのです。
さらに、そこから15cm縮まって、半径45cm。これは、好意の距離と呼ばれており、親密な間柄の者のみ侵入を許せる距離感なのだそうです。
もちろん、全員が全員そうであるとは限りません。
しかしこの説が本当だとするなら、人のひしめく都会で生活するというのが、どれほどの人的圧力を受けるのか、容易に想像ができます。
街中で歩いているときはもちろん、立ち寄ったコンビニで買い物をするときでも、簡単に人と半径45cm以内をすれ違います。
極めつけは満員電車で、45cmどころか0cm……いいえ、自分の体に別の誰かの体が圧しつけられるわけですから、マイナス何cmという表記でしょうか。
自分の体にめり込むほどに別の誰かと意図的に密着するなんて、小さな子供や恋人を抱きしめるとき以外に、どんなシチュエーションがあるでしょう。
これが、圧力社会を形成する、ひとつめの圧力です。

 

ふたつめは、空間です。
先ほどの満員電車の話にも通じるものがありますが、都市部で暮らしていると、その生活空間のすべてがコンパクトにまとめられていることに気付けなくなります。
田舎の駅に降りたとき、その余りにも広々とした光景に解放されたような気分になるという経験は、多くの人がしているはずです。
数字的に考えればそれはおかしな話で、先ほどの半径60cmの空間を作れれば人は解放感を得られるというのですから、それならば都心部で生活していても探せば幾らでもあるはずです。
たとえば学校のグラウンド。
たとえば会社の屋上。
たとえば家の近所の道。
両手を広げて何も当たらない程度の空間なら、この街中でも十分に探せます。
しかし、実際にそこで解放感を得られることは無いでしょう。
やはり、視界を遮る数々の建物が、私たちに無意識の圧力を与えてくるのでしょう。

効率を重視した結果、そうなることは仕方がないと言えます。
しかし、狭い場所というのは、それだけで空間的圧迫感を強いられます。
そして、その狭い場所に多くの人が集って仕事をするわけですから、先述の人の圧力がさらにプラスされることになります。
極端な話ですが、同じデスクワークを同じ時間だけやるとしても、デスク同士の間隔が1mと30cmとでは、受ける圧力は変わってくるはずです。
ましてや、デスク同士が密着して、隣の座席に座っている者同士の間隔がすでに50cm未満ということも往々にしてあることでしょう。
空間的圧迫感と、そこにすし詰めにされた人同士の圧迫感。これが毎日続くというのですから、体が不調になるのも無理もないと思います。

 

そしてみっつめは、価値観の圧力です。
現代社会は多様な価値観が入り交じり、様々な個性が乱立しているように言われていますが、実はその認識は正確とは言えません。
皆さんは、こんな話を聞いたことがありませんか?

「いい大学を出て、いい会社に入り、結婚して幸せな家庭を築くことが成功者の人生である」

いたってシンプルな、ともすれば退屈に感じるかもしれない、幸せのテンプレートのような話かもしれませんが、もし実際にこれを成し遂げている人がいれば、なるほど確かにその人は成功者でしょう。
今では成功者ではなく勝ち組、というもっと俗な表現が使われることが多いですが、ここで冷静に考えてみてください。
果たしてそれは、あなた自身にとって本当に『成功の条件』ですか?
さらに具体的に言いましょう。

いい大学とは、偏差値幾つ以上の大学のことですか? 国公立ですか、私立ですか?
いい会社とは、設立何年以上で、資本金幾ら以上の会社のことですか? 扱っている業種はなんですか?
幸せな家庭とは、どんな人と結婚して、どんな家に住むことですか? 子供の数は何人ですか?
そもそも人生の勝ちとは、どんな条件なのですか? 収入ですか? 仕事の内容ですか?

このすべてにそれぞれ明確な答えを出すことができる人は、先述した成功者の人生を生きることで、文字どおりの成功者になれる人です。
しかし、実際はそうでない人のほうが多いはずです。
にもかかわらず、幸福な人生の条件といったら? と訊かれたら、上のような答えを返してしまうことはないでしょうか?

確かに誰が聞いても幸せだと思う、当たり障りの無い答えかもしれません。
しかしそれは、私たち一人一人にとっての幸福ではありません。
それどころか、もしかしたらそれとは程遠い生き方を幸福と感じる人もいるはずです。
たとえば、独立心が強く冒険心旺盛な人が上記のような人生を送ろうとすれば、毎日が監獄の中のような気分になってしまうことでしょう。
それよりも、自分の興味のある学問を修め、デスクひとつの小さな会社を立ち上げ、その会社こそ我が子と思い結婚は後回しで全力で仕事に励むほうが、何倍も幸福な人生を送れそうな気がしないでしょうか。

しかし、この社会はそれを幸せの条件とは認めないでしょう。
幸福な人生の条件は? と訊かれて今のような答えをすれば、首を傾げられるか、鼻で笑われるかのどちらかです。
よほど理解のある人なら「なるほど、確かにそれはキミにとっては最高の幸福かもしれないね」と頷いてくれるかもしれませんが、そうなることは恐らく少ないはずです。

今回は人生という非常に大きな括りで例えを出しましたが、こういったことは見渡せばあちこちに転がっています。
健康もその最たるもののひとつで、
「こういう生活習慣、こういう食生活、こういう運動をすれば、健康になれる」
といった謳い文句が、この日本という社会には蔓延しています。

 

密集した人の圧力。
その密集した人を小分けにする区画整理がもたらす場所の圧力。
そして、その区画整理された人と場所が崩れないようにするために、不確定要素を極力排除しようとする価値観の圧力。
このみっつの圧力によって造られ、今もなお発展を続ける社会。
それこそが、ストレス社会と呼ばれる現代の姿です。

 

しかし、それは本当に不幸な社会ですか?
むしろ、人類の歴史を見るに、発展する社会というのは得てしてそういう様相を取るのではないでしょうか。

そのとおりです。
適切な圧力は成長をもたらします。
すなわちストレス社会というのは、言うなれば成長段階の社会という捉え方もできるのです。
そして、その社会で生きるということは、私たち自身も常に変化、成長を求められている、ということでもあります。
だからこそ、私たちはこの社会が与えてくる圧力を耐えるのではなく、逆に糧にしていくべく頭を使わなければなりません。

自分にとって心地よく感じる人の密度は、どの程度か。
自分にとって自由に思える空間は、どういうところか。
自分にとって成長を感じさせてくれる価値観は、どういったものか。
そして、それらを満たすもの、近似値を見出せるものは、一体なんなのか。

これらに対して、もし自分なりの答えを出すことができれば、その人はこのストレス社会の中で間違いなく健康で、幸福な人生を送ることができるでしょう。