前回は、「人間は骨で立っているのではない、骨とは肉体の諸器官がその場にあるための指針なのだ」
という話をしました。

では、結局のところ人間はどのようにして自立しているのでしょうか。
自立というシステムを支えているのは、なんなのでしょうか。

結論から言うと、人間の体というのは『張力』で立っているのです。

 

空気の一杯に入った風船、あるいは薄いゴムボールのようなものを想像してみてください。
破裂するほどパンパンではなく、けれど万遍なく空気が入って張りのある風船やゴムボールです。

それを、水平な地面に置いてみたとします。
どうでしょうか。

そのとおりです。ボールはその水平面に置かれた状態で、ぴたりと止まるはずです。
これが、私たちの直立のシステムなのです。

 

信じられない、あるいはナンセンスだと思う人もいるかもしれません。
しかし、実は人間の直立というのは、建築物のような安定を求めるものではないのです。
むしろ、ちょっとした揺れや、地面の傾きで、簡単にふらついてしまうものなのです。

少し嫌な話になりますが、昔は『絶対に微動だにさせず立たせたままにする』という拷問があったそうです。
座ることは勿論、足を僅かに動かすことも許さず、延々と立たせ続けるというものです。
恐らく、もって2時間。直立に慣れていない現代人なら、1時間と経たずに音を上げてしまうかもしれません。
このように、不動の姿勢で直立を続けるというのは、実は全身を相当酷使することなのです。

 

本来、私たちの肉体は、僅かな外的要因に反応して動くようにできています。
ちょっとした地面の揺らぎや、指でチョンとつつくと、風船やゴムボールがころりと動いてしまうようなものです。

しかし、それは悪いことなのでしょうか。

逆です。

ちょっとしたことで動いてしまうということは、実は全体にしっかりと張力が満ちている証拠です。
空気の抜けかけた風船は、僅かに萎んで地面との接触面が多くなり、ちょっと触ったくらいでは動かなくなります。
しかしそれは風船としては良い状態ではありません。
むしろ、ぱつんと空気が張っていて、指で突いただけでも転がっていってくれるような風船のほうが、適切な姿ではないでしょうか。

ちょっとした刺激、外部からのアクセスに対して敏感に、柔軟に反応し、肉体の内部が自由に動くことのできるだけの張りがあるからこそ、微細なバランス調整を行いながら『直立し続ける』ということが可能となるのです。

 

ですが多くの人は、微動だにしない直立不動の姿勢こそが美しいのだと勘違いしています。
確かに、美術品、あるいは舞台表現として見るにはそれはとても美しいでしょう。
しかし私たちは日常の中で、それを行い続けることができるでしょうか。

どんな優秀な舞台表現者であっても、舞台の上と日常とではからだの使い方が異なって当然です。
むしろ、優れた表現者ほど、日常の中においてはできる限りからだに負担を掛けない、余計な力みを入れない生活をしているものです。

なのに私たち一般人が、日常の中であっても常にステージにいるかのような緊張状態を維持し続けているというのは、まったくもっておかしな話ではありませんか。

個人的見解になりますが、この原因は小学校をはじめとする初等教育における「気をつけ」にあるのではないかと考えています。

全身を緊張させることによって美しい直立の姿勢を作り出し、それを指導者である先生たちが……
暴言は百も承知ですが、肉体のことについてなにひとつ理解のない素人が、パッと見て分かりやすい姿を、満足げに「よし」と褒めるものだから、子供たちは「これが綺麗な姿勢なのだ」と勘違いしてしまうのです。

肉体の外側をまるでコンクリートのように固めて、内側からの張力など関係無しに、力で無理やりに立つということを覚え込まされます。
そこで培われた直立のイメージは修正されるされることなく、現在の私たちの肉体を締めつけているのです。

直立不動、という言葉の持つ印象もよくありません。
極端な言い方になりますが、人間の肉体に『不動』など存在してはならないのです。
肉体は、常に微細な動きを繰り返してこそ、初めてその中で美しいバランスを維持することができます。
極めて微々たる振動を繰り返している針があったとして、それを遠目から見たら止まっているように見えるのと同じです。

 

肉体にとって最も心地よい、最適な状態というのは「『変化』『流動』を妨げない」ことです。
ほんの些細な外的要因に対しても肉体そのものが柔軟に対応し、変化した環境の中で自身のバランスを取ることを日常的に行っているからこそ、私たちは「ありきたりな変わり映えのしない日常」を謳歌することができるのです。

それは決して不安定という意味でも、落ち着きがないという意味でもありません。
私たち人間の肉体は、半分が水でできている、と言われています。
水の生命の象徴であると同時に、変化、流動のシンボルでもあります。

一見、波ひとつ無い凪いだ湖面であっても、その深いところでは常に小さな流れが動いているはずです。
生命を水であるとするなら、決して凍らせて固めることをもって安定したと思ってはいけません。
動きの無いドロドロの沼のような水面を見て、凪いだ美しい湖面だなどと勘違いしてはいけません。

 

肉体の微細な動きを妨げることなく、その動きが作り出す外へ向かおうとする力……『張力』が万遍なく全身に行きわたる。
それこそが、美しい直立を生み出し続けるのです。