年度納めという時期なので、今回は自分への確認の意味も含めて、
「からだとは如何なるものか」
ということを、少し語ってみようかと思います。

ピタゴラスの手では、からだを
「自分に最も近しい他者である」
と認識しています。

 

私たちは気付くとすぐに、からだそのものを自分自身であると思い込んでしまいがちです。
しかし、からだの中で私たちの自由にできるところなど、
実はほんの一握りしかありません。

心肺や消化器系のはたらきはもちろん、
動きに伴う微細な筋繊維の伸縮や、
二足歩行という不安定なはずの動きを支えるバランス機構。
これらすべて、私たちの自由にはできません。

以前の記事でも紹介したとおり、
からだは自律神経というバランスを司る2本の手で、
現状における最もバランスの取れた状態へと、
自身を整えようとするのです。

私たちにできることは、そのバランスを司る自律神経の基準目盛りが、
許容範囲内にキチンと収まっているかどうか、
その確認だけでしょう。

 

私たち自身と、からだとの関係性を視覚化するなら、
馬と騎手の関係が、分かりやすいかもしれません。

私が騎手で、からだが馬です。

馬は、ちゃんと馬の意思をもっています。
しかし、騎手が跨ることで、馬は騎手の意思を反映させるために
動き出します。

泡を吹くほどの全力疾走も、
障害物を飛び越えるのも、
馬単独であれば、殆どしないはずです。
肉食獣に襲われるなど、命の危機に晒されたときくらいでしょうか。

騎手が跨り、そのように命令を出すからこそ、
馬は自身のスペックをフルに用いた動きをするのです。

 

だからこそ、私たちは「からだという馬」を、
もっとよく知るべきでしょう。

遠目から見れば、馬はどれも似たような姿形をしています。
それこそ、私たちのからだと同じです。

しかし近づいて良く見てみれば、馬一頭一頭が、
まったく異なるものであることが分かるはずです。

農耕馬も、馬車馬も、競走馬も、軍馬も。
すべて同じ馬ですが、まったく別の存在です。

それぞれに最適な生活習慣があり、
それぞれに適切な乗り手との距離感があるのです。

 

我々ピタゴラスの手は、施術という方法を用いて、
お客さまのからだがどのような馬であるのかを知ります。

そして、その馬と、乗り手であるお客さま自身との、
適切な距離感をお伝えします。

それを繰り返してゆく中で、騎手であるお客さまが、
からだという馬に鞭を入れるばかりだったのが、
水や飼葉を与え、ときに背を撫でてやることも大切なのではないか……

そう思うようになる瞬間を見るたびに、
この上ない喜びを感じるのです。