前回、前々回と、健康をお金にたとえて話をしてきました。

大切ですが、それに縛られてはいけないもの。
私たちの生活に無くてはなりませんが、集めようと躍起になると醜くなるもの。

そして、然るべき方法でもって投資を行えば、一定の時間を置いて大きな利益を生み出してくれるもの。

健康とお金には、多くの共通点があります。

 

本テーマの締めとして、今回は

「では、そもそもお金とは何なのか」

という話をしてみようと思います。

 

この日本で最初の貨幣が作られてから、1000数百年の時が経ちました。
しかし本来、商売の基本は物々交換であり、実はそのシステムそのものは今も変わっていないのです。
ただ、物と物のあいだにお金を仲介させることで、価値基準を統一させている……ただそれだけなのです。

たとえて言うなら、キャベツを持った人が魚を欲しいと思ったならば、
魚を持っていてキャベツを欲しがっている人を見つけて、その人と交換すればいいだけです。
しかし、この物々交換では、そもそも『魚を持っていてキャベツを欲しがっている人』を、まず探すところから始めなければいけません。
また、その魚がとても大きくて良質なものであるなら、キャベツひと玉とは価値が釣り合わないかもしれません。

そういった非合理、不平等を解消するための仲介役として、私たちは貨幣経済というシステムを取り入れ、
その中で生活しているという、ただそれだけの話なのです。

お金が絶対的な力を持っている。
お金があれば大抵のことはできる。

それはある意味で大きな思い違いであり、資本主義、貨幣経済に慣れ過ぎてしまったせいで、
基本的なことを忘れているだけに過ぎません。

では、その基本的なこととはなんでしょうか。

お金とは、物と物との仲介役である、と先述しました。
それはつまり、買い手と売り手……いいえ、一定の価値を提供し合う者同士の関係を仲介するものである、と言えるはずです。

恐らく人によって、あるいは地域によってその表現は変わってくると思いますが、私はこの人と人とを仲介するものとは、

『感謝である』

と考えます。

つまりお金とは、
「私が欲しいものをくれてありがとう」
「私の持っているものを貰ってくれてありがとう」
そういった相互感謝という感情が、形をもったものではないでしょうか。

 

そして、そうであるならば健康をお金にたとえるということは、

『健康とは、私とからだとの相互感謝である』

と、表現できるのではないかと思うのです。

 

私たちピタゴラスの手は、からだを自らの所有物ではなく、
『自身に最も近しい他者である』
と捉えています。

ということは、それぞれが別個の存在であるのですから、そこに相互感謝という関係性が生まれても、なんら不思議はありません。

 

「いつも私の無茶を聞いてくれてありがとう」
「いつも丁寧に使ってくれてありがとう」

そんな、お互いの感謝の想いが私たちの健康の正体であるとするのならば、
健康のためにからだに無理をさせる必要もありませんし、健康維持のために神経をすり減らすなんて、
まったくもって本末転倒ではありませんか。

からだを奴隷のように使うわけでもない。
かといって、からだの欲求に媚びへつらうわけでもない。

あたかも、隣に住む者同士……いえ。
同じ家に住む者同士が一定の距離感を保ちつつ、お互いに協力し合って生きていくように。
そして、義務と責任ではなく、感謝と好意によって生活を回してゆくように。

からだとのあいだにそんな関係性を築くことができれば、きっと私たちは何歳まででも健康を保ち続けられることでしょう。