信用と信頼
前回、確信がからだを創るという記事を書きました。
良い根拠を重ねていき、それを信じることがからだにとって最良の健康法である……と書いたと思いますが、実はこれはある意味で『確信』と呼ぶには少々不十分なのです。
最近なにかと有名なアドラーの心理学でも紹介されていますが、ひとくちに『信じる』と言っても、これには大きく分けて「信用」と「信頼」というふたつの意味があります。
信用とは根拠を必要するもので、信頼とは根拠を必要としないものです。
具体的には、信用とはいわゆる銀行がお客さんを信じてお金を貸す、ということに近いと考えてみてください。
銀行はお客さんの何を見て、この人にはお金を貸しても大丈夫だと信じるのでしょう。
人柄でしょうか。それとも過去の経歴でしょうか。
それもあるでしょうが、やはり一番は担保のあるなしです。
一定の条件を満たす、一定の担保を持っているということを前提に信じるということを、信用といいます。
つまり前回紹介した、良い根拠を重ねることで自分のからだは善いものであると信じるということは、大きな括りで見れば「私は自分のからだを“信用”している」と言えます。
だとすれば、その良い根拠を重ねることを止めてしまえば、私たちはからだを信じる拠りどころを失ってしまうかもしれません。
では、もうひとつの信頼とは、どういうことでしょう。
先ほどの銀行のたとえで言うなら、担保を必要とせず、万が一貸したお金が返ってこなくても構わない、という心持ちで融資するということです。
実際にはそんな銀行はありませんが、こと家庭という場においては、それは往々にして行われているはずです。
たとえば、親が自分の赤ん坊を見て、この子は将来きっと立派な大人になると信じて、その願いを込めた名前を付けるのはなぜでしょう。
一体その赤ん坊の何を見て、何を根拠に立派になると信じたのでしょうか。
そこに担保も、具体的な根拠もありません。
遺伝子提供者である自分と配偶者の現在の姿を見て、それを根拠に子供の未来を素晴らしいと信じられるという方は、恐らく少ないはずです。
しかし、多くの親は何の根拠も理由も無しに我が子の可能性を信じ、輝かしい未来を願って名前をつけることでしょう。
信頼とは、そういうことです。
実は、私たちのからだをもっとも大きく反応させるのは、この信頼です。
無条件に、見返りを求めず、なんの根拠も必要とせずに信じることこそ、からだにとって劇的な変化をもたらすのです。
とは言ったものの、からだを無条件に信頼しろと言っても、難しいと感じる人もいるでしょう。
いえ、むしろ多くの人が、自分のからだであるにもかかわらず、無条件に信頼するなんてできないと考えがちではないでしょうか。
そしてそれは『からだとは“老いという劣化をするものである”』という、暗黙の了解がそこにあるからではありませんか?
もしくは『人間のからだとはアメーバのような単細胞生物から変化していった存在である』という、無条件の前提があるからではないでしょうか。
過去の記事でも書いたとおり、老いとは劣化ではありません。
老いとは、からだの中の四季が春から冬へと移り変わってゆく時間経過に過ぎないのです。
そして、冬は春と比較して劣っているのでしょうか。
そもそも、季節というものは比較できるものなのでしょうか。
また、ダーウィニズムを根拠とする進化論は、医療先進国であるアメリカにおいて『数ある学説の中のひとつ』『個人の主義主張において選択していいもののひとつ』として捉えられているということはご存知でしょうか。
世界規模において一学説として扱われるに過ぎない進化論を絶対のものであると思い込み、人間のからだとはアメーバが進化したものなのだから信頼に値しないと決めつけるのは、余りにも狭量であるとは思いませんか。
私たちワーニッツでは、からだとは『独立した一個の生命体』であると考えています。
私たちが『自分』だと感じているものは、私という一定の形を持たない自我のようなものであり、からだは『からだそのものの自我』を持っているのです。
つまり“私”とは、私自身の自我と、からだの自我。ふたつの意志があたかもひとつになったような存在である……ワーニッツではこの思想をベースに施術を行っています。
からだとは、常に自身をより良い状態へと変化させ続ける能力を持っています。
からだの自己再生力、自己修復能力は驚異的ですし、脳というどんなスーパーコンピューターも及ばない演算能力を有する器官もあります。
さらに、どんな科学技術をもってしても未だ実現不可能な『新たな生命を生み出す』という奇跡の能力が、からだには備わっているのです。
そして、そんな優秀な能力を備えたからだは、私たち本人を無条件に信頼してくれます。
私たちから発せられる思いを繊細に感じ取り、お前は素晴らしいと言われればより素晴らしい自分になるべく変化し、お前は下らないと言われればその言葉のとおりの自分になろうと自らを変化させるのです。
それはあたかも、赤ん坊が親の言葉を無条件に信じ、親の言うことに可能な限り従おうとする純粋な全面信頼に似ています。
そんなからだを信じない理由が、果たしてどこにあるでしょう。
からだは病気を作りません。
からだは寿命という対応年数いっぱいを、可能な限り健康という状態のまま使い切ろうと、日夜努力しているのです。
からだは私たちにとって、驚異的能力を持つ優れた隣人であると共に、私たちを見上げ続ける無垢な幼子です。
どうか、からだをもっと褒めてあげてください。
もっと可愛がってあげてください。
そして、我が子を信じるように、からだもまた信じてあげてください。
そうすればからだは、その驚くべき能力をフル稼働して、私たちに褒めてもらうため、喜んでもらうためのアピールを目一杯してくれるはずです。
それを受けて私たちはまた、からだへの感謝と愛情を返していくのです。
『私』と『からだ』との感謝のやりとり。それができればそこにはきっと、健康のスパイラルが完成していることでしょう。
Masaki