4月になり、年度のはじめということで今まで学んできたことの復習も兼ねて、改めて『健康』について考えてみることにしました。

さて、ひとくちに健康と言いますが、そもそも『健康』とは一体どのような状態のことを言うのでしょうか。
まず、健康を広辞苑的な意味で調べると、
『心身がすこやかな状態であること』
と出てきます。
次に、世界保健機関(WHO)で掲げられている健康の定義を見てみると、
『身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない』
と記載されています。
これら2つの資料を見るだけでも、健康とは非常に曖昧で、明確な定義づけの難しいものであることが分かります。

ここから私は、健康とは「からだにとっての幸福」を示す言葉ではないかと考えました。
もう少し詳しく書くと、
『精神的充足感』を『幸福』と呼ぶのならば、
『身体的充足感』を『健康』と呼ぶのではないか
ということです。
敢えて精神と身体を別々にしたのは、第三者から見れば物理的、あるいは経済的に満たされているとは言えない状況であっても、充足感を得て幸福になることは可能であるからです。
すなわち幸福とは曖昧、かつ主観的なものであり、なにをもって幸福とするかは人それぞれであるということは、
同様に健康もまた、曖昧かつ主観的なものであって然るべきではないかと考えたのです。

というのも、昨今『健康』にスポットライトが当たり、多くの人が『健康』に興味を持っているからという理由が多分にあるからなのでしょうが、
どうにも数値や条件によって健康の定義づけをしたがる風潮が蔓延しているように思うのです。
今この文章を読んでるということはインターネットに繋がっているということでしょうから、試しに
『健康 数値』
と検索してみてください。
きっと、うんざりするほどに大量の数字情報が羅列されるはずです。
伸長と体重から割り出されるBMI値はもちろんのこと、血圧や血糖値、ヘモグロビンの数、果ては1回の射精に含まれる精子の数まで出てくるのですから驚きです。
そして、それらの項目の多くに
「この数値からこの数値の範囲を健康体と呼ぶ」
というふうな定義づけがされているのではないかと思います。
そして私たちの多くは、その定義づけを何の疑問も抱くことなく受け入れてしまっているのではないでしょうか。

冷静に考えればおかしな話です。
曖昧で明確な定義づけの難しい『健康』に、なぜこれほどまでに多くの数値的項目が列挙され、その範囲までもが区切られているのでしょうか。
もしも仮にこれが健康ではなく、先ほど挙げた精神的充足感としての『幸福』というカテゴリだと考えてみてください。
年収、居住環境、家族構成など大量の項目が羅列されて、ここからここまでの範囲の人を幸福な人と定義しましょうと書かれていたら、どう思うでしょう。
大きなお世話だ。そんな杓子定規に私の幸福を計られてたまるか。
そう感じるのではないでしょうか。
しかしこと健康となると、なぜこんなにも数値で区切られた範囲を良しとしてしまうのでしょう。
なぜ健康診断の結果に一喜一憂し、テレビや雑誌で紹介される健康的なライフスタイルという情報を鵜呑みにしてしまうのでしょうか。

率直に言えば、心や精神は私たち一人一人で異なる、唯一無二のものであると認識されているのに対し、
からだ、肉体は、同一のフォーマットに基づき、同一の工程を経て造られた、まるで機械やコンピューターのような全人類共通のものであると認識されているからに他なりません。
確かに、私たちのからだはパッと見ただけなら非常に似通った姿をしています。
頭はひとつ、胴体がひとつ、そこから手足が2本ずつ。心臓はひとつで肺は左右に1対。食道、胃、腸への流れる形……すべてがとてもよく似ています。
しかし、その全てが別々のものです。仮にたとえ双子であったとしても、まったく同じものはひとつとしてありません。
心と同じように、からだもまた一人一人で異なる、唯一無二のものなのです。
ということは、健康も同じように、私たちひとりひとりで異なる定義や基準を持っていても良いはずです。

確かに、からだとしての共通項はたくさんあります。それらを参考に健康を考えることは間違っていませんし、むしろ非常に合理的であるとさえ思います。
そしてそれは、心にも同じことが言えるはずです。収集された大量のデータを元に、統計学のような学問を用いて作られた占いや心理テストにも一定の共通項が見いだせるのはそのためです。
しかし、そのすべてが当てはまるわけではありません。
からだもまたそうです。同じ生活リズムで、同じ食事を取り、同じ運動をしたとしても、筋肉の付き方、ダイエットの成果などに明らかな個人差が出るのは周知の事実でしょう。
さらに、東洋人と西洋人はDNAのレベルで異なった身体構造を持っているため、同じものを食べても同じように栄養にできるわけではないという話もあります。
ということは、たとえ医療の最先端であるアメリカで取られたデータであったとしても、その数値をそっくり日本人にあてはめて考えることはできない、と考えられるのではないでしょうか。
もし数値による定義づけを良しとするのであれば、人種の違いはもちろんのこと、出身地域、男女、年代など多くの項目で区分けされたデータを用いる必要があります。
そうでなければ、本当に自分に近い、自分にとって参考になるデータとは言えないはずです。

繰り返しになりますが、私たちのからだは、確かに多くの人と似た姿をしています。
パッと見ただけなら、まるで全人類が共通のものを持っているかのように感じることでしょう。
しかし、そのひとつひとつは、世界にただひとつだけの唯一無二の存在です。
それを理解したうえで健康を求めるというのならば、私たちは、私たちの意志で、私たち自身のからだと向き合わなければなりません。
恐らくそれは、とても面倒で、とても手間のかかることです。
そんなことをするくらいなら、テレビや雑誌、ネットに出てくる健康の範囲を示す数値や情報に従ったほうが、遥かに楽ですし、分かりやすいことでしょう。
ですが、楽で分かりやすいということは、正しいとイコールなのでしょうか。
これこれこういうライフスタイルの人を幸福な人と呼びますと示されたとして、それと同じ姿になることを求めて生きる人を見て、あの人は幸福になろうと努力している素晴らしい人だと、どれほどの人が感じると思いますか?

もちろん、面倒で難しいことが正しいとイコールであるとも限りませんし、数値的情報のすべてがアテにならないなんて言うつもりもありません。
どちらを選ぶのも自分自身で、どちらと向き合うかを決めるのもまた、自分の責任において自由です。
であるのならば、数値を基準に考えない、数値的データは雑誌の占いコーナーのように参考、気休め程度に捉えてみる……という健康の姿があっても良いのではないでしょうか。
それよりも、
『どんなふうにありたいか』
『どんなふうに歳をとりたいか』
そんな曖昧で漠然としたイメージから作り出される健康もあって然るべきです。

いやいやそんなものは個人の基準で如何様にも変わってしまう。やはり健康には明確な数値と範囲が必要で、それがあるからこそ人は健康を目指して努力できるのだ……と。
そんな正しさ“しか無い”のが、恐らく現代の常識ではないでしょうか。
私たちワーニッツは、そこにもうひとつの正しさを提示してみようと思うのです。

『幸福の基準がひとりひとり違うように、健康の基準もまた、ひとりひとり異なるものだ。ならば私たちは私たち自身の健康を目指して、私たちのからだと積極的に向き合う努力をしてみよう』
そんな在り方もまた、当たり前のように健康と呼ばれる世の中になると嬉しいかぎりです。

Masaki